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東京地方裁判所 昭和43年(ワ)15128号 判決 1973年3月31日

原告 甲野一郎

右訴訟代理人弁護士 島田正雄

同 青柳孝夫

被告 旭電化工業株式会社

右代表者代表取締役 河井洋一

右訴訟代理人弁護士 和田良一

同 松本啓二

同 青山周

同 美勢晃一

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

≪省略≫

理由

一  原告が昭和三二年四月一日にその従業員として被告に雇用されたこと、被告が昭和四二年四月一三日に原告に対して懲戒処分として原告を解雇する旨の意思表示をしたことは、いずれも、当事者間に争がない。

二  そこで、右の懲戒解雇の事由について考察する。

1  ≪証拠省略≫をあわせると、原告は、被告の事務職従業員であるが、被告の就業規則一〇条一項前段に「業務の運営上定期または臨時に異動(役職任免、配置転換)を命ずることがある。」と規定され、かつ、入社に際し、被告の就業規則および命令を誠実に守るものであるとの趣旨の誓約書にその身元保証人である長兄の甲野太郎と連署してこれを被告に差入れたことが認められるから、特段の事情のないかぎり、原告は、被告の従業員として、就業規則の右規定にもとづき転勤を命ぜられたときは、これに従うべき労働契約上の義務があるといわなければならない。

2  被告が昭和四二年三月三〇日に原告に対して本社食品課(東京)から関西食品課(大阪)へ転勤することを命じたことは当事者間に争がないから、右の転勤命令が被告の就業規則の前掲規定にいう業務運営上のものであるかどうかについて考察する。

原告が昭和三二年四月一日に被告に入社して研究所に配属され、その後本社食品課勤務となって被告の製品である家庭用マーガリン、チーズ等の販売業務に従事してきたこと、被告が無機製品(カセイソーダ等)、有機製品(可塑剤等)、油脂関連製品(石鹸、マーガリン等)の製造ならびに販売を営む資本金一五億円の株式会社であり、本社事務所(東京都中央区日本橋)、尾久工場(東京都荒川区東尾久)、関西事業所(大阪市東区南本町)、明石工場(兵庫県加古郡稲美町)、福岡出張所(福岡市昭南町)、名古屋営業所(名古屋市中村区広井町)を設け、従業員約一九〇〇名(昭和四四年三月現在)を雇用していること、被告が昭和三九年五月に製品系統別に三つの事業部組織を発足させ、これにより昭和四二年四月ごろにおける被告の業務組織が化成品事業部、油脂事業部、食品事業部の三事業部と本社機構、尾久工場、関西事業所および名古屋営業所より構成されるにいたったこと、そして右の三事業部のもとに各各開発部門、製造部門、販売部門があり、これらの開発部門と製造部門はいずれも事業場としての尾久工場内におかれ、各販売部門は本社事務所内にあったが、関西事業所のもとには製造部門(明石工場)と販売部門がおかれていたこと、被告が昭和三九年五月食品事業部販売部を食脂課と食品課の二課制とし、当時の販売部門の人員が食品事業部販売部(食脂課一六名、食品課九名)、関西事業所営業部(食脂課一一名)、名古屋営業所(食品係一名)の全体で三七名であったこと、昭和四二年四月当時の食品事業部販売部が、人員三三名でそのうち食脂課が課長以下一九名、同食品課が課長以下一四名(うち事務に女子一名)であり、同課において卸店関係の販売業務(卸店販売)に従事していた者六名、ルート販売に従事していた者六名であったことはいずれも当事者間に争がなく、≪証拠省略≫を総合するとつぎのとおり認めることができる。

(一)  被告は昭和三九年五月以降事業部制を採用し、その多岐にわたる製品販売部門の拡充をはかったが、爾来その業績は次第に拡大し、食品販売部門においても、事業部発足当時三七名にすぎなかった人員が昭和四二年三月当時には本社食品課の一四名、関西食品課の八名をはじめとして合計五三名に、同年四月ごろには五八名にそれぞれ増強されるにいたった。これにともない販売活動もまた中央から地方へと伸展し、地方における売上げの増大が期待されたが、特に従来伸びの弱かった関西にその重点が置かれた(昭和三九年を一〇〇とした食品売上げは昭和四二年本社が二九〇であるのに対し関西一六〇にとどまっていた。また有効需要は本社が六〇%関西が四〇%とみられるのに、実際の売上げは本社七六%関西二四%であって、関西の販売の伸びが弱かった。)。右のような事情を背景として、昭和四二年四月一日付発令の同年度定期異動が実施されたが、食品事業部関係も、右の社内事情にともない事業部全体で二六件、うち食品販売関係一四件に及ぶ異動となった。原告に対する本件転勤命令は右の定期異動の一環として発せられたものであるが、右発令の当時原告は本社食品課(課長以下一四名)において特約店に対する卸担当員として勤務していた。そのころ食品課において右の特約店卸担当の業務に従事していたのは原告を含め六名(当時の本社食品課の人的構成は課長一、特約店卸担当六、ルート販売担当五、事務一、女子一、であった。)であった。原告に対する本件転勤は関西と本社との人事交流を直接の目的としたものであったが、本社食品課の特約店卸担当員六名中原告が関西派遣要員として選ばれた経緯と理由はつぎのとおりであった。

(二)  昭和四二年一月ごろから同年の定期異動の検討がはじまったが、各地方から食品事業部販売部長に対しおおむねつぎのような人員要請等の上申がなされた。関西食脂課交替一、増員一、関西食品課増員一、福岡出張所交替一、増員一(食品担当にあてる。)のほか名古屋からも増員の要請があった。そこで同部長において検討の結果、関西食品課の増員については全体的見地からしばらく留保し、福岡出張所の増員については関西の売上げ比率をあげるため増員を認めて交替を実施することとなり、食品食脂担当の山口係長を本社食品課長補佐に異動させる一方、これにかえ福岡出張所の食品と食脂を分離し、食品を担当させるため本社食品課から福岡出張所へ転勤させる者の人選を行なった。右の人選にあたって、福岡出張所の食品担当員は、一名が右の山口係長で卸とルート販売を兼ねている経験者であったが、他の一名が臨時雇でルート販売を担当していたので、山口係長の交替者として転勤する者は卸とルート販売のいずれもできる者でなければならず、特に関西における販売強化の趣旨からして、初歩的営業技術を有するにすぎないルート販売担当員では不十分であり、本社食品課員のうち卸担当の六名の中から一名を選ぶこととなった。ところが右六名のうちその担当特約店、経歴、販売能力の点からみて、本社食品販売の中核であったA、B、Cの三名は、この時点で異動の対象とするわけにはゆかず、残る三名のうち一名は未だ経験年数僅か一年であった関係上、人選は原告とDとの二名のうちいずれか一名を要員に充てるということに帰着した。しかし、原告とDとを比べた場合、同人は被告の重要特約店であった「明治屋」に対する卸業務ならびに開発が緒についたばかりの学校給食用の販売責任者であった関係からその交替が難かしく、結局右のような事情のない原告が適任と判断され、同時にまた本社における販売力を大きく落すことができないこととあわせて、性格的にみても強い個性のある者、社会的な信用を得る面においてある程度の年令に達し、在社歴もある程度長い者、また本社での販売成績が良く、関西における他の若いセールスマンの手本ともなる者を選ぶという見地からみても原告が適材であるとされた。このような経緯で、原告が福岡出張所の食品担当員として転勤する要員に選出される予定となったので、内定前ではあったが、同年二月はじめ岩下課長が原告に対し福岡出張所の食品担当を強化するため本社食品課から転勤させることとして原告がその有力候補である旨を告げたところ、数日後に原告から遠方への転勤は困るとの申出があったので、岩下課長は上司に対して九州が遠いというのであればときどき帰ることができる関西ならどうかとの意見を述べ、関西事業所とも打ち合わせた結果、福岡出張所へは関西食品課から転勤させ、これにかえて原告を関西食品課へ転勤させることに計画の変更が行なわれた。その後四月一日付で定期異動の発令が行なわれ、山口係長は本社食品課課長補佐に異動し、その後任として関西食品課から転勤者が赴任したが、原告が関西食品課への転勤を拒否したため、そのあとはしばらく空席となったが、同年六月の中途採用者のうち一名が本社で二か月の訓練を受けたうえ配置された。

以上のとおり認められ、右認定を左右すべき証拠はない。右認定事実によれば、本件転勤命令は、被告がその業務運営上の必要からこれを発したものというべきである。

3  本件転勤命令は被告が原告の生活の実態を全く考慮しないで人事権を乱用して発したもので無効である、という原告の主張について判断する。

(一)  本件転勤命令に関する原被告間の交渉の経過について、≪証拠省略≫を総合すると、次のとおり認めることができる。

被告が昭和四二年四月一日付でした定期人事異動は、本件転勤をいれてかなり大規模のものであって総件数一三八件に達するが、そのうち食品販売関係の異動は一四件あり、更にそのうち勤務地を異にする異動すなわち転勤の件数は九件で、異動の主目的は関西における食品販売部門の充実におかれた。被告においてはこれまでもしばしば転勤発令が行なわれ、その中にはたとえば病身の父親をかかえているなど家庭の事情から転勤に苦痛を感ずるであろうと思われる者についての事例もあったが、最後まで転勤命令に従わなかったものは原告がはじめてであった。ところで、岩下課長は、原告が前記認定のとおり転勤すべき者として選出されたので、同年二月一日に原告に対し原告が選ばれた理由や業務運営上の必要性について抽象的にふれながら「手形や現金の集金という責任ある仕事でもあるから独身の者より家庭を持っている人を対象に選んだ。それにセールスマンとして各地をまわってきた方がいいんだ。」と申し添えたうえ、福岡出張所へ転勤すべき有力候補者に原告が挙げられている旨を告げた。しかし、原告は、妻と相談のうえ、同課長に対し「妻が妊娠しており間もなく出産の予定である。また両親が年寄りで遠くへ行ってもらっては困るといっている。それに共稼ぎをしており、妻は転勤できないので困る。福岡出張所への転勤はぜひ考えなおしてほしい。」といって、転勤の困難を訴えたので、岩下課長は、年寄りの両親というのは原告の妻の両親のことをいっているという印象を受けたが、原告の妻の両親は老令ではあるが健康でブリキ職を営んでいるときいていたこともあって「現在奥さんやその両親は寝ているという状態ではない。営業マンは必要に応じて転勤するのだから、ある程度は我慢しなければならない。現に寝込んでいるというのなら会社は考慮しないでもない。」と述べ、共稼ぎの点については、「奥さんの勤務先の方で転勤させてもらえないのか。奥さんの会社の本社は大阪にあるし、向うの方が大きい会社で女性も大勢いるので一人位転勤を認めてもらえないのか。君と同年輩同職種の程度の人でも地方へ転勤して社宅へ入っておればやっている例があるし、また大体やっていけるのではなかろうか。」などと話した。これに対し、後になって「妻の転勤は例がなくむづかしい。」と原告の回答があっただけで、さらに同課長が転勤について出産は考慮しなければならない要素とはいえないと話して考えなおすよう説得したが、考えなおすような気配は少しもなく話はそのまま打ち切られた。またこれと併行して同課長は、当時原告の妻がいわゆる一人っ子であるということは知らなかったけれども、両親も年輩のようなので万一の時に早く来られる場合の方が良いと考える一方、福岡出張所はどうしても補強しなければならないため関西事業所から福岡出張所へ転勤させ、関西事業所へは本社から補充することを考え、同事業所とも連絡し、原告を関西食品課へ転勤させるよう計画を変更して上司に報告したうえ、同年三月二日ごろには原告に右転勤計画を伝えて「大阪なら共稼ぎできる面もあるのではないか。奥さんの大阪での就職については依頼があれば斡旋してもよい。また別居となれば月六〇〇〇円の別居手当が支給される。」と附言もし関西食品課への配転を受諾するようしきりに勧めたのであるが、かえって、原告は右転勤計画に対して「大阪でも転勤に変りはなく、東京を離れるのは困る。」といってことわっただけにとどまらず、そのために同課長の上司である杉本部長からも「被告には支店が少ないから異動は特別のような感じがするが、他の会社と比較するとむしろ少ない位である、奥さんが妊娠しているのに転勤している例はほかにもあるし、老人が反対をしている例もほかにあるから原告だけが特別の例ではない。」と話して転勤するよう説得し、また住居の便益およびその費用負担の軽減等につきはるかに有利な社宅の利用も可能であることなどで岩下課長から転勤についていろいろもちかけられ、条件によって態度を変えようとする柔軟さが期待されていたにもかかわらず、「自分は東京を離れたくないんだ。」「自分が納得しなければ会社は関西へ転勤させられない。自分は転勤を納得しない。」との硬直一点張りのたたかう姿勢に転じ、ついに再考の気配を見せなかった。しかし、「そのうち原告の考えも変るだろう」とその飜意を期待して、被告は予定どおり同年三月三〇日に四月一日付をもって原告の関西食品課への転勤を発令したが、原告はついにこれに従わなかった。

かように認めることができ、右認定を左右すべき証拠はない。

(二)  原告が本件転勤命令に従わなかった理由についてさらに検討を加える。

(1) 原告がその妻花子が妊娠中であることをその理由の一つにあげて本件転勤命令に従わなかったことは右にみたとおりであるが、≪証拠省略≫をあわせると、右花子は、妊娠による分娩が昭和四二年六月に予定されていたが、妊婦としての経過が順調であったので、転勤の予定される同年四月当時において妊娠による健康状態につき特に懸念されるようなものがなかったことを認めることができるから、右花子の妊娠およびその臨月が同年六月であることは夫である原告の本件転勤を妨げるに足りる事由にはあたらないというべきである。

(2) すでに認定したとおり、原告は、さらにその理由の一つとして、原告およびその妻花子の双方の親が挙って原告の転勤に反対するからといって、本件転勤命令に従わなかったのであるが、≪証拠省略≫をあわせると、原告には母タケ(明治三六年生)がいるが、同人は夫亡きあと昭和二三年いらい長子太郎(昭和五年生)から末子五郎(昭和二〇年生)にいたる男五人、女四人の子女を育てあげ、本件当時においては右太郎以下原告の兄三人、妹二人および弟一人の六人がそれぞれ職に就いて収入を得ながら母と同居していたので、原告からの援助ないし扶養を必要とするような境遇にあったわけではないが、原告は、その兄および弟妹らが母と同居して物心両面に亘る世話をしていることから、ひとしく子の親に対するつとめをはたそうとの一族の図らいに従って、母あてに毎月四〇〇〇円を仕送っていたこと、原告の妻花子は、いわゆる一人っ子であるが、当時六八歳と六七歳の父と母が健在で、戦前から小規模経営ながら職人を雇い入れて建築の板金工事の下請を家業としていたので、特に経済的援助をしなければならない必要はなかったのであるが、原告との共稼ぎで平均月収(期末手当を除く。)六万二〇〇〇円の手取額のうち自己の月収が原告のそれよりも約二〇〇〇円多い状態にありながらなお原告がその母タケあてに月額四〇〇〇円の仕送りをしていることに倣って、月々四〇〇〇円を親許に仕送っていたことが認められるけれども、このような事情のもとにおいては、原告の母タケまたは花子の両親のいわゆる反対がはたして被告の出方など委細構わぬものであったのかどうか、はたいかなる成算あっての反対なのかについては窺い知るに足りる証拠もなく、原告がその親たちに反対されたからといって本件転勤命令に応じないことはとうてい首肯しがたいものといわなければならない。

(3) 夫婦で共稼ぎをしており、妻は転勤できないので困っているといって、原告が本件転勤命令に従わなかったこともまたまえにみたとおりであるが、≪証拠省略≫を総合すると、花子は、昭和三〇年四月に日本生命保険相互会社に入社して経理関係の事務にたずさわり、算盤一級の腕前をもっているほかいくらか簿記の心得もあり、昭和四一年五月二九歳で原告と結婚した当時平均月収手取額(期末手当を含まない)三万二〇〇〇円を得ていたが、原告の月収が意外にも自己のそれより二〇〇〇円ほどすくないことを知ってなおさら共稼ぎは相当の年月にわたるものと観念していたこと、原告は、昭和一二年一月生れで高校(普通科)を卒えたのが昭和三一年三月、さらに一年おくれて昭和三二年四月に被告会社に就職し、研究所で研究員らが分担する研究業務のうち定型的・補助的な作業職に従事し、昭和三九年五月以降事務職従業員として食品事業部販売部食品課(すなわち本社食品課)に勤務していたところ、食品販売部門での適性を買われて昭和四二年四月定期の人事異動計画に際しその一環として本件転勤が組まれたのであるが、すでに入社後一〇年を経過し、年令三〇、その配偶者と同年六月に出産を予定される子一人の扶養家族を抱えて生計を維持するに足りる給与(賃金月額三万二六〇〇円、同年四月以降の年間推定可処分所得月額平均四万九六三〇円である。)、社宅利用等の条件を具えるにいたり、いよいよ被告の従業員としてその年令階層にふさわしい転勤等の配置転換に応ずることができるようになったことがそれぞれ認められ(る。)≪証拠判断省略≫そして、≪証拠省略≫をあわせると、同じ定期人事異動により、原告とその条件で殆んど変らない福井孝行(非大学出身・勤続一〇年・扶養家族二人・賃金月額三万三二〇〇円)が東京から福岡へ転出しているが、本件転勤を含めて右福井にみられるような人事異動は被告の雇用体制上必要不可欠の人事交流として定型的に運用されており、被告の労働組合である合成化学産業労働組合連合(いわゆる合化労連)旭電化労働組合もまたこれに協力していることを認めることができる。しかも、≪証拠省略≫によれば、花子は、原告と結婚したのちにおいても、年老いた両親と一人っ子の絆にほだされて新居を近所に求め、原告の社宅入居のせっかくの機会をも見送り、両親の居宅から徒歩五分位の距離ではあるが、賃料および間取りなどの条件ではとうてい社宅に及ばない六畳ひと間の間借住居に甘んじていることが認められ、そのうえ将来とも長きにわたってその保険会社勤めを続けようとしていることは前記認定のとおりであり、世上配偶者の職業上の理由または同居の親族の監護・教育上の必要などによりよぎなく単身で転勤する事例がままあることでもあるから、原告は、本件転勤問題に対処するにあたって、さしあたり、巷間の事例に倣い妻花子にその勤続一二年に及ぶ保険会社勤務を従前どおり継続させることとし、みずからは単身で大阪の関西食品課へ転勤するほかない実情にあったということができる。まさに原告のいう生活の実態は、被告との雇用関係を維持するかぎり、右のように対処し選択することを原告に促すのではなかろうか。

ともあれ、以上のような認定事情のもとにおいて、原告が夫婦共稼ぎをしていて妻が転勤できないからといって本件転勤命令に従わないことは相当でないというべきである。

(三)  右(一)および(二)(1)から(3)までに認定したところによれば、本件転勤命令をもって被告がその人事権を乱用してことさらに酷薄に原告を処遇したとみるのは当らない。原告の主張は採用しがたい。

4  原告は、また、本件転勤命令は被告がいわゆる左翼分子排除の経営方針のもとに原告の積極的な組合活動等を封殺するために発せられたもので原告の思想・信条の自由を侵害する無効のものであると主張するから、これについて考察する。

右のいわゆる左翼分子と原告との具体的関連性ならびに原告がどのような思想・信条の持主なのかについては、原告の主張自体必ずしも明らかでない。しかし、≪証拠省略≫によると、被告は、もっぱら企業防衛の見地から、日本共産党(日共)またはその強い指導下にあるといわれる日本民主青年同盟(民青同)に属する分子が企業内において組合活動に名を藉り、尖鋭かつ矯激な行動に奔って企業秩序を紊すにいたる事態に備えて、その警戒心を旺盛にし、職制組織の教育訓練に努めていることを認めることができ、≪証拠省略≫をあわせると、合化労連旭電化労働組合もまたその組織防衛上組合内部における日共ないし民青同的分子の妄動に警戒を強め、その暴走を許さぬ方針を堅持していることが認められるから、被告においては、労使ともに、日共ないし民青同的分子に対する警戒ないし用意おさおさ怠りのないことが窺われるのであるが、いったい原告が日共ないし民青同的分子であるかどうかについては、これをみきわめるだけの証拠はみあたらないし、かりに、原告が日共ないし民青同的分子であるとしても、その故をもって被告が本件転勤を原告に命じたことを肯認するに足りる証拠はさらにない。

そして、原告が被告に入社すると同時に合化労連旭電化労働組合に加入し、昭和三五年一〇月から二期二年にわたって青年婦人部長、昭和三七年九月からやはり二期二年にわたって執行委員をそれぞれ勤めたことは当事者間に争がなく、≪証拠省略≫によると、原告は昭和三五年以降積極的に組合活動に従事し、組合の職場大会における討議でも目立つ存在であったほか、職制のもとにおける販売会議に際してすら組合的要求を持ち出したりしてつねに活溌に発言し、ハイキング・労音等のレクリエーションについても意欲的な呼びかけをするなどして、口さがない同僚に「アデカ(被告すなわち旭電化の略称)の全学連」と誇張されるような一時期もあったことが認められるが、このような組合活動の故をもって被告が原告に日共ないし民青同的レッテルなどをひそかに貼って本件配転を命じたことを肯認するには、右証拠資料ならびに≪証拠省略≫をもってしても足りないし、ほかに的確な証拠はみあたらない。かえって、原告の本人尋問の結果および弁論の全趣旨によれば、被告は、従業員の勤務成績の考課に際しては、つねに原告の快活・温厚・勉励さを正当に評価し、原告の意欲的な組合活動の故をもってことさらに給与等の厚薄を異にするような処遇は絶えてなかったし、原告もまた昭和三九年に組合の執行委員をおりて以後は目立った組合活動の場もなく経過し、一時噂されたほどの組合活動は本件転勤命令当時においてはもはや旧聞に属していたことを認めるに足り、すでにみたとおり、本件配転は被告の関西食品課の強化拡充という全く業務運営上の必要にもとずいて策定されたのである。原告の主張は理由がない。

5  被告は、従業員が被告の職務上の指示命令に従わず職場の秩序を紊しまたは紊そうとしたときは、その従業員を懲戒解雇することができることとして、その趣旨の就業規則の規定(八一条九号)があることは当事者間に争がないところ、原告は、本件転勤命令に従い、関西食品課において服務すべき労働契約上の義務があるのに、あえて被告の命令に従わず、これにより職場の秩序を紊したことが前認定によって明らかであるから、原告について就業規則上の右懲戒解雇事由が存するものといわなければならない。

三  原告は、さらに、転勤命令に従わなかったという一事のみで原告を懲戒解雇に処することは不当であるとして本件解雇の効力を争うので、これについて判断する。

1  原告が転勤問題に関し被告にどのように対応したかについては、前記二3(一)において認定したとおりであるが、この認定事実に≪証拠省略≫をあわせると、原告は、妻花子が前記保険会社を退職して原告の大阪転勤に随伴するか、または右会社勤務を継続することとし、したがって夫婦別居状態で原告が単身で大阪に赴任するかについては、本件転勤問題に強気で臨んでいる花子の昂然たる意気込みに触発されてか、その選択肢などもとより念頭になく、当初の福岡転勤の内示から約一月経った同年三月二日の大阪転勤の内示いらい、ますますその態度を硬直にしていき、ついに「共稼ぎの夫婦が別居しなければならないような転勤は納得できない。転勤はしない。」との高姿勢に転じて転勤そのものを拒否し、さらに、旭電化労働組合が原告の転勤問題に善処すべく執行委員会および職場委員長会議による方針として原告が執行委員会に対しその交渉を無条件で委任すべきことを求めたが、組合の右の好意的申出をも斥け、本件転勤を取り消させること以外の事項について執行委員会にその交渉を委任する意思などはさらにないことを明らかにして、やみくもに本件転勤命令には応じないとの戦う姿勢に終始したことが認められるが、これでは、あくまで原告の責任において決定し選択すべきことがらについてその順逆を倒錯するものと誹議されてもやむをえない。

2  ≪証拠省略≫をあわせると、被告と組合との協議機関である労使協議会の下部機関に人事委員会があるが、原告から「本件転勤命令に従うことはできないので人事委員会で取り上げ、反対してほしい」旨の申出を受けて、組合が同年四月一日に被告に対し人事委員会の開催を申し入れたことにより、同委員会は同月三日午後一時から会社側総務部長代理、所属部長、組合側支部長、副支部長、書記長各出席のうえその会議を開いて原告のいい分をきき、被告からも本件転勤命令の業務運営上の必要性が説明されたが、原告が共稼ぎによる拒否理由を強調して本件転勤命令に応じられないとの態度を変えず、最終的には、被告において労働協約・就業規則に照らして処置するほかないとしてその旨を原告に明示し、原告において被告の右明示にもかかわらず本件転勤命令を拒否する旨を言明して終了し、さらに問題を発展させて労使協議会にこれを移行させることを求めるまでにはいたらなかったが、労働協約上、人事委員会は異動、配置転換等についての発令が行なわれた後その再審査のために開かれ、これが開かれた場合においても当該発令の効力は停止されないことを認めることができるから、右のような経過で人事委員会が終了したからといって、被告において原告の転勤命令拒否を理由とする懲戒解雇を行なうことを妨げられるものではない。

右1および2にみたとおり、本件懲戒解雇は、原告の本件転勤命令拒否行為の情状に照らしてその裁量に過誤があるとはいえないし、また、懲戒手続のうえにおいても間然すべきところはないと解すべきである。原告の主張は理由がない。

四  以上述べた理由により、原被告間の雇用関係は本件懲戒解雇により昭和四二年四月一三日をもって終了して、原告は被告の従業員たる地位を喪失したといわなければならない。

よって、原告の本訴請求は、その余の点につき判断するまでもなく、すべて理由のないことが明らかであるから、これを失当として棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 中川幹郎 裁判官 仙田富士夫 本田恭一)

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